頓知で有名な一休さんこと室町時代の臨済宗の僧一休宗純
自分が小学生の頃TVでみていた一休さんとかなりイメージが違うんですけど……
それはそれとして……( ;∀;)
童話の題材としてだけでなくアニメにもなったと言うかなり有名な人物ですが、その正体は実は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送ったかなりの破戒僧とも言える人物だったそうです
しかし彼がそうも言われるのは一休さんが本当に知恵のある人物である種の悟りを開いていたからだとも言えるところがあるのです
そこで今回は彼の残した名言から彼の悟った人生についてが分かるものを4つ御紹介させていただきます
「世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ」
一休さんは基本的に性悪説のような価値観を持っており、人が成す善行と言うものをこの名言のように評価しました
もう少し分かりやすくいうならこの名言は「人に何かを語るという段階で、それは既に自分にとっての評判を上げるためだったり、利益を手に入れるためのものであるのだ」と言った感じ
人間が100%相手のために何かをするという事はなく、誰かに何かをしてあげようと言う行動は結局の所、自分のために成るからこそしていると確かに考える事ができます
例えば誰かに喜んでもらおうとプレゼントをすると言うのも一見すると相手のため100%に思えますが、それは自分が相手に喜んでもらいたいからと言う自分の欲であるとも言えます
そうして考えるならば人を救いたいと思って何かをしようと言うのも「自分のためにそれをしている」と思ってするのが本来正しいあり方なのに、まるで人のために自分がやっていると思いこんでしまっているから「折角してやってるのに」とか不満が生まれてくるのだと考えられます
この一休さんの名言はそんな自分が何かを成すという時は、全て自分のためなのだと教えてくれる事で、何かをする方もされる方も、本来はそこまで気を使わなくて良いのだと教えてくれる名言であると言えます
「経文に気をとらわれてこだわりすぎると、有害なものになる。私も経にとらわれてしまって、犬や猫にも及ばない。犬でさえ仏殿に向かって、何の迷いもなく小便を引っ掛けるのに」
この一休さんの名言はなんと言うかお坊さんにあるまじき発言であると同時にだからこそ名言であると言えるような名言の一つ
物事と言うのは例えそれがどんなに尊いと言われる物でも、素晴らしい教えだと言えるものでも何か一つに固執するという事で物事を客観的に見れなくなると言う弊害を起します
キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、聖人として数々の教えを残してきた宗教の開祖に当たる方たちは確かに素晴らしい人たちだったという事ができますが、どちらの宗教も「宗教上の教えの元」と言う理由から多くの人を殺める行為をしているのですし、どの宗教においても他宗教に対して熱心な信者であるほど排他的であると言えます
イエスもブッダも絶対に本人ならば誰がどの宗教を信仰していようと平等に扱ったでしょうし、本当の聖人ならば特定の固定観念なんかに囚われる事を決して良しとする事はないでしょう
この名言は本来ならこうして結構重い話になってしまうような内容を、一休さんらしい面白おかしく表現することで「分かる人にはちゃんと分かる大事なメッセージ」を伝えてくれる名言であると言えます
「わざわいというものは、元々福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄に過ぎないと信じる」
この一休さんの名言は「禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)」と言う諺(ことわざ)の基になった名言でして、世の中の物事はまるでより合わせた縄のように良いも悪いも一緒になっていて、かわるがわるやって来るものだと語った名言
不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりすると言う経験をしたこときっと誰にでもあるでしょうし、成功も失敗も同じように「ある意味で成功」とか「失敗とも言える」なんてことがあ世の中にはあります
一休さんは他にも「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と言う名言なども残しており、世の中で起こる物事と言うのは必ず良い面も悪い面も一緒になっているものであり、それらは切り離して考える事は出来ずに「一体どの面を今見ているのか?」という事の違いがあるというだけであると考えました
それはつまり世の中の物事をどう受け取るかという事でその人にとっての幸せと言うのが決まるとも言えることであり、一休さんは世の中はそういうものだからと言う考えをしていたからこそ、人生を楽しく生きたのでしょう
「袈裟が有り難く見えるのは、在家の他力本願」
一休さんの数々の名言の中でもこの名言は、突飛で奇抜な行動をして仏門への反逆児、破戒僧だと言われた面が垣間見える名言の一つ
簡単に分かりやすく言ってしまうと「お坊さんの格好をしているからその人はあがめられているだけであり、その人の本人の力なんてそこには無い」と言った名言
凄まじい物言いではありますが、これは彼の生きてきた室町時代の人たちへの率直な思いを語った言葉であるとも言えます
実際にお坊さんの格好さえしているから許されたという事もこの時代は多く、そこに本人の積んだ徳がどうだとかいう事までをそこまで気にしていたと言う人はあまり多くなく、お金があったり、そうした家系であったのならばお寺の関係者となり、袈裟を着ることは出来たと言います
しかし一休さんはそれが本来あるべきものではないと本気で訴えたかったのではないでしょうか?
この名言がただの皮肉ではない証拠として他の名言で
「釈迦は、生まれつき偉い人のように思いがちだが、元々我々と同じような人間であった。しかし釈迦は6年間苦しみながら修行をし仏となった。そこが我々と違うのだ」
と言う名言も残しており、本人が何を成したのかこそが重要な事なんだと語っています
ついつい役職や立場で人のことって見てしまいがちですが、なるほど確かにそれって評価される人も評価する人もあまりにも他力本願な事なのかもしれません
この名言はそうしたついつい忘れてしまいがちな、「何を成したかがその人の価値に成る」という事を思い出させてくれるような名言であるという事ができます
自分が小学生の頃TVで見ていた『一休さん』(1975年10月15日から1982年6月28日 全296話)には何回か神回がありました
小学生の自分にはかなり重い題材を扱ったものでしたが、子供ながら考えさせられた思い出があります
その重い題材は一休の本質に迫ったものっだったんですね