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今の君達に是非学んで欲しい乃木希典の真っ直ぐな人間性

今の君達に是非学んで欲しい乃木希典の真っ直ぐな人間性

君達にとって乃木坂と言えば…当然46ですかね

 
そして乃木坂が東京に実在する坂だと知っている生徒はかなりいる事だと思います
 
では乃木坂の「乃木」が人物の名前だと知っている生徒は?
 
乃木坂46のファンとって乃木神社は聖地らしいですね!
そしてその乃木神社は明治時代に活躍した軍人であり明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典を祀った神社なんです
 
 
今日は乃木希典について少し語っててみたいと思います
 
 

日露戦争

 

日本人の最も誇るべき物語の一つ、日本が世界に貢献した最も偉大なる歴史の一つが日露戦争である
日本国民が血と涙を流した民族の存亡をわけたこの戦いの主役が、明治天皇、東郷平八郎そして乃木希典である
 

「旅順要塞攻略、奉天会戦、日本海海戦…。日露戦争の行方を決定づけた戦いにおいてそのすべてに関わり、奇跡的な勝利に至る鍵を握ったキーマンともいうべき人物が存在する。満洲軍第三軍司令官・乃木希典だ。…数々の不利な条件を撥ねのけたそれらの敢闘はもはや『奇跡』といっても過言ではない」
 
 乃木は決して頑迷な愚将、拙劣極りなき戦下手ではなく、日露戦争の奇跡的勝利を導いた古今に比類なき名将であることを私は既に『乃木希典―高貴なる明治』(平成十三年、展転社)で論じた。
ロシア軍総司令官クロパトキンが日本軍諸将のうち誰よりも畏怖したのが乃木であった。
「いかなる敵を引き受けても断じて三年は支えることができる」と自負していた難攻不落の鉄壁の堅城を、五カ月で落とした乃木とその部下将兵の戦いは、クロパトキンにとり想像を絶する人間の力を超えた鬼神(キリスト教流に言えば悪魔)の為せる業であった。
 
 この人間ならぬ鬼神の如き乃木及び第三軍が最後の奉天会戦(明治三十八年二―三月、それまでの世界陸戦上最大の会戦)において、数倍のロシア軍を相手に各軍中最大の犠牲を払いつつ攻めに攻め続けたことが、遂にクロパトキンの心臓を打ち貫き恐怖のどん底に陥れ、日本軍の逆転勝利をもたらしたのである。
 
 結局、旅順要塞戦が日露両国の命運を決した天王山、真の決勝戦であり、最後の会戦・奉天会戦の勝利は乃木軍の死戦ともいうべき一大奮戦なくしてあり得なかったのである。東郷平八郎が世界一の海将として仰がれるのであれば、同様に乃木希典もまた古今随一の陸将として称えられるべきである。
 
 

戦った相手への人間として尊敬を忘れず

 
 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。
「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。
 
「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。
乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。

 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。
 
 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。
 
「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」
 
 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。
 
「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」
 
 このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。
ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。
乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。
すると乃木はこうのべた。
 
「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」
 
 ステッセルは愕然として言った。
 
「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」
 
 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。
乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。
この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。

 

 

敵将の不遇知り救済の手尽くす

 
 ステッセルは戦後、ロシアで軍法会議にかけられ、旅順開城の責任を問われ死刑の判決を受けた。旅順の陥落がロシアにとりいかに致命的であったかがわかる。
それを知った乃木はいたたまれず、当時パリにいた元第三軍参謀津野田是重少佐に種々の資料を送り、ステッセルを極力弁護する様依頼した。

 津野田は直ちにパリ、ロンドン、ベルリン等の諸新聞に投書、ステッセルとロシア軍がいかに粘り強く抗戦したか、日本軍の猛攻に開城はやむなきものであったことを強く訴えた。
この元第三軍参謀の説得力ある主張は効を奏し、ステッセルは特赦となり刑を免れ出獄、モスクワ近郊の農村で余生を送った。
 
 ところがしばらくの間、生活に窮した。それを伝えきいた乃木は、名前を伏せてかなりの期間少くない生活費を送り続けた。
ステッセルと彼の部下の激烈な抗戦を骨身に知る者は乃木である。それは世界一の陸軍国といわれたロシア軍の名に恥じぬ戦いであった。
その守将が死刑を免れたものの生活に窮すると聞いて乃木は深く同情しつつ、相手の名誉を重んずる方法で手を差し伸べたのである。
 
 だが、ステッセルにはその送り主が乃木であることはすぐわかった。
 
 大正元年乃木が殉死した時、「モスクワの一僧侶」という名のみで、皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔意金が送られてきた。ステッセルであった。
乃木の厚意に涙したステッセルは晩年、「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」とくり返し語った。
 
 

明治天皇崩御そして…

 
 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。
誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。
大正元年九月十三日、大葬が挙行された。
 
遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。
数え六十四(満六十二)歳である。
明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。
 
当時この殉職は時代錯誤…時代遅れと世間では受け入れられなかったようです
 
が…この殉職の事を肯定的に盛り込んだ小説が書かれました
 
 
 
 

今回は歴史の勉強と言うよりも、人間の『覚悟』について学んで欲しいと思いました
 
決して受験に失敗したら切腹しろと言う事ではないですよ(^^;)
 
『覚悟』とは自分は将来どのような人間になりたいか?を自分に問い…
そして…そのために今自分は何をするべきかを見定め
それを何があっても粛々と実行していく気持ちだと思います
 
この『覚悟』をもって勉強に臨めば目先の結果に一喜一憂せずに自分が今するべき事がはっきりしてくるのではないでしょうか…

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坂本 享一

某証券会社に入社した後、フリーランスを経て家庭教師・塾講師を長年行っています。この度、『勉強が解かる喜び』をモットーにした家庭教師S-PROJECTをスタートさせました。
ビリヤードが好きな陽気なおっちゃんです。

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