日本とモンゴルに跨る歴史の不思議   ー 義経とチンギスハン ー


2017.11.25

歴史

歴史のミステリー

 
 
歴史を学んで行くといくつかの不思議と直面します
 
一番有名なのは織田信長の遺体が本能寺の焼け後から発見されなかった事などがありますが…
他にも不思議は色々あります
 
そこで今日はイマイチ、マイナーではあるんですが、源義経とチンギスハンが同一人物説について書いてみたいと思います
 
この説は、そもそもヨーロッパから日本に来た医者、シーボルトが言い出したものです
 
源平合戦後、兄頼朝によって平泉で自害させられたとされる源義経
 
しかし、源義経=チンギスハン説は脈々と語り継がれているんです

 
 

源義経

 

 
大体にして義経が衣川で自害させられてはいないのではないか?

 
衣川で自害させられた義経の首は鎌倉にいる頼朝の元に送られています
これは、間違いない事実です
 
鎌倉に義経の首が届いたのは6月13日
今でいうと真夏
 
当時でも20日でいける平泉と鎌倉の距離
それにもかかわらず、実は義経の死から鎌倉まで43日もかかっています
なぜでしょうか?
なぜだと思いますか?
真夏なら首が腐らないように急ぎそうなものです
それにも関わらずいつもよりも倍以上の日数がかかっています
 
ここで一つの仮説が浮かんできます
 
送られた首って…義経の首ではないのではと考えられませんか?
義経じゃないから頼朝が首検分をした時にばれないようにわざと時間を稼いで腐らせたのでは…
 
ではその首は誰のものだったのか?
実は義経の死を境にその記録が途絶えた男がいるんです

名を杉妻太郎
義経の世話役の男性です
二人は見間違うほど似ていたと言われています

そこで彼の首が鎌倉に送られたのではないでしょうか?
 

では義経は…?
 
実はその後北を目指す義経を目撃し、風呂を貸した人物までいるのです
風呂を貸したことで義経に「風呂」と言う名字まで与えられています
 
ただ、兄頼朝もバカではありません
腐った首では信用できなかった
平泉に刺客(畠山重忠)を向けたようです

 

ちなみに北に逃げて行く義経の痕跡が今でも残っています
例えば、岩手県石見氏には源義経と弁慶の名が記された木片が残されています
 
岩手県普代村には、北を目指す義経一行が不行道(現在の普代村)で道を断たれて一週間ほど滞在したと記録もあります
 
刺客が迫っていたのです
 
つまり、義経の足取りを確実に追っていたんです
義経が生きてることは源頼朝自身が半分証明してくれてるわけです
 
義経は、そのまま北上した源義経・・・北海道に行き着くわけです
 

北海道、当時でいう蝦夷(えぞ)にたどり着いたはいいですが、モンゴルまでどうやっていくの?と疑問が浮かんできます
 
源義経はどうやってモンゴルに渡ったのか…
 
その頃の蝦夷では海洋民族が築いた文明が栄えていました
船を使って大陸と交流していたのです
これは仮説ではなく、ほぼ確定です
 
 
もし源義経が北海道までたどり着けていたなら、そこから彼らの力を借りて大陸へいけます
あとは陸路ですから、モンゴルに行けないとは言い切れないのです
つまり、源義経=チンギスハン説はあながち間違いではないかもしれません

 

チンギスハン

 

 
史上最大のモンゴル帝国の基礎を築いたチンギスハン
それなのに彼に関しての資料が少なすぎるのです
生年月日さえわかっていないんです

(これは当時のモンゴルなら普通だったのかもしれませんが…)
 

二人の共通点

 
義経は31歳で死亡17年後にチンギスハンが歴史に登場…この時41歳と言われています
大体同年代なんです
 
さらに当時のモンゴルで大型の弓を使っていたのはチンギスハンただ一人
普通は小型の弓を使うのがモンゴル人なんですが、大型の弓を使っていたのは日本人です
 
義経は「九郎義経」の別名もあり、またチンギス・ハンも「クロー」の別名があった
 
背格好、お酒が苦手なことが共通点
 
家紋や弓矢、年代など2人には共通点が多い
 
さてどうでしょう…義経=チンギスハン説…君達は信じますか?
 

いかがでしたか?
 
信じる信じないはともかくとして、歴史を学んで行くうえで時系列を追って学んで行くことの重要さは解ってもらえたのではないでしょうか
 
そして歴史にを学ぶにあたり原因→過程→結果の追及も大事なのです
 
そのように学んで行けば自分なりの仮説も立てられその仮説の証明しながら歴史の勉強も楽しくできるでしょう

坂本 享一

某証券会社に入社した後、フリーランスを経て家庭教師・塾講師を長年行っています。この度、『勉強が解かる喜び』をモットーにした家庭教師S-PROJECTをスタートさせました。
ビリヤードが好きな陽気なおっちゃんです。