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イチローはイチローを目指さない!

イチローはイチローを目指さない!

世界のイチロウの日本での足跡

 
 
みなさんは、大リーガー『イチロウ』については良くご存じだと思います
 
そこで、日本でのイチロウの足跡について簡単にご紹介してみます
 
 

 
 

日本プロ野球ではMVP、首位打者、打点王、盗塁王、ベストナイン、ゴールデングラブ賞などを獲得し、2000年オフに日本人初の野手としてメジャーリーグベースボールに移籍[注 1]。MLBでは、MVP、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞などを獲得した
2004年にはMLBのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、コミッショナー特別表彰を受けた。2016年にはMLB通算で3000本安打、500盗塁、さらにNPB/MLB通算でのプロ野球における通算最多安打数を樹立するなど活躍した

 

 

小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属
エースで4番として活躍し、6年生の時には全国大会に出場した
小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をした
学年が上がるにつれて、それだけでは満足できなくなり、町内にある空港バッティングセンターにほぼ毎日通い詰めていた
3年生の時には速度100キロの球を打っていた
バッティングセンターに通いつめるあまり、普通の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを作った
同センターにはイチロー専用8番打席が現在もある
なお、同時期に年齢が一つ上の稲葉篤紀も同じバッティングセンターに通っていた
 
のちに稲葉は「隣で同い年くらいの奴がめっちゃ速いボールを簡単に遠くまで飛ばしていた」と話している
 
豊山町立豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属
エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという
そして、愛工大名電に進学する
 

愛工大名電時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得
2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている
 

3年間の高校通算成績は536打数269安打、打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131

 
イチローは、同年のドラフト会議を前に、地元球団であることに加え、目標としていた藤王康晴・田尾安志が所属しており、幼少期からファンだった中日ドラゴンズを希望していた
イチロー本人だけでなく、父・鈴木宣之も、「子供のころからドラゴンズのファンだったし、せめて3位ぐらいまでに(中日が)指名してくれればいい」と思っていた
 
しかし、当時イチローを担当していた中日のスカウト池田英俊は、当時投手だったイチローについて「体が出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない」と評価していた
結局、中日はイチローについて、ドラフト5位での指名を予定していたが、オリックス・ブルーウェーブの東海地区担当だった三輪田勝利スカウトが、4位での指名を強く主張したため、イチローの中日入団は幻に終わった
 
結果的に地元の「金の卵」を取り逃がした中日は、その後、スカウト間でのお家騒動に発展したという
中日元監督・星野仙一は「うち(中日)は、投手としての感触だけでしか(イチローを)見ていなかった。あれは大失敗だった。イチローの教訓は、うちのこれからのスカウティングに生かしたい」と語った
 
1991年の夏の終わり、三輪田から「おもしろい選手がいるから見て欲しい」と報告を受けて、当時オリックスの編成部長だった中田昌宏がイチローを視察
福本豊や加藤秀司らを育てた阪急の名打撃コーチでもあった中田だったが、1球たりとも芯を外さない、イチローのフリーバッティングを見て、「あんな選手見たことがない」とその天才的打撃に惚れ込み、田口壮に次ぐ2位指名を編成会議で求めた
しかし、フロント入りしていた前監督・上田利治らは「線が細すぎる。プロでは無理だ」と萩原淳を推して侃々諤々の議論の末、萩原の2位指名が決まった
3位指名はオリックスが囲っていた本東洋で決まっていたため、ドラフト当日、オリックスのイチロー獲得は絶望的だった
しかし、同じくイチローを高く評価していた日本ハムと、地元中日が、いずれも4位までに指名しなかったため、オリックスはイチローを4位で指名することができた
このような経緯もあり、三輪田の親族によれば、イチローは三輪田の死後、墓参りを毎年欠かしたことがないという
 
ドラフト会議翌日、三輪田は、イチローの実家にあいさつに訪れた
父・宜之は、入団については、中村監督に一任したが、契約についてのみ、「前年、イチローの先輩(伊藤栄祐)が、ドラフト5位、年俸400万円で近鉄バファローズに入団している。イチローはドラフト4位なので、(年俸面での待遇は)5位との差を少しでもつけてほしい」と要望した
これを受け、オリックス球団は、1年目年俸を430万円に設定した
契約金は4000万円だったが、約半分が税金として徴収されており、残った2000万円分は、宣之が「息子の退職金の先払いと思って」、将来のために貯金をしたという
 

1992年7月11日の対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)で、左翼手・村上信一に代わる守備固めとして1軍初出場を果たした
翌日の対ダイエー戦で初スタメン出場
木村恵二が投げた直球を右翼に打ちプロ初安打を記録した
 
この年は打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得したが土井正三・小川亨などの1軍首脳陣に自身の打法(振り子打法)を批判される
「足の速さを活かしてゴロを打つように」と打撃方法を変更するよう要求されるが拒否
1軍打撃コーチ・山内一弘と意見が合わず、シーズン終盤にスタメンになる事は増えたが一軍に定着することはなかった
同年のジュニアオールスターにて同点である8回に有働克也から代打決勝本塁打を放ってMVPと賞金100万円を獲得し賞金全額を神戸市の養護施設に寄付した
2軍選手ではイチローが初。
 
1993年4月10日の開幕戦は9番・中堅手としてスタメンに起用され、翌日の試合では1番打者を務める
その後は控えにまわり、6月12日の対近鉄バファローズ戦で再び1番・中堅手としてスタメン出場を果たす
同試合では野茂英雄からプロ初本塁打を放った
以降も6月23日まではスタメン起用されるが、打率1割台という不振のため2軍行きを命じられる
 
2軍生活の中でイチローは、同年の秋に2軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた
2軍では、前年から続いて2シーズンにまたがる46試合連続安打を記録
この年は打率.371を残したが規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった
同年のオフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、「ヒロ・スターズ」に所属して優勝し、ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれた
カウアイのヴィディンハ・フィールドでは推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた
 
1994年の公式戦開幕直前の4月7日、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更
日本人選手としては初めて、名字を除いた名前での選手名登録となった
この年から監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。打法も同年から新しく1軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した
9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ
次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打の偉業を達成した
 
最終的に安打数も210本まで伸ばし、この活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」が連盟表彰のタイトルとされた
打率では、日本プロ野球史上初の4割打者誕生はならなかったものの、最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385を残して首位打者を獲得
そのほかにも最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。
 
1995年の開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災において本拠地の神戸市が壊滅的な害を被りイチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災する
この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートした。イチローは震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」的存在として、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。「打者五冠王」に輝いた
打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)のほか、全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙だった
本塁打はリーグ3位タイの25本で、この年に28本放って本塁打王を獲得した小久保裕紀とは3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩だった
そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球、自身初のリーグ最多敬遠に加え、当時の日本プロ野球タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残すと、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となるシーズンMVP・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞も受賞。そしてチームは悲願のリーグ優勝を達成した
 
1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場
オールスターゲーム第1戦では広島東洋カープの紀藤真琴から初回先頭打者初球本塁打を放った
第2戦では投手として登板
セ・リーグ総監督の野村克也が松井秀喜の代打で送った高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている
後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いていたが、3番になってからは調子を上げて固め打ちが目立つようになり、8月にはプロ野球記録となる月間48安打(月間打率は.475)を記録した
 
最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、また193安打で3年連続となる最多安打・最高出塁率を記録、去年に引き続き最多敬遠も記録した
猛打賞を26回、1試合4安打を8回記録
9月23日の対日本ハムファイターズ戦で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現させた。日本シリーズでは、第1戦の延長10回に河野博文から決勝本塁打を放つなどの活躍を見せ、1977年以来19年ぶりの日本一に輝いた
イチローは優秀選手賞を受賞したほか、3年連続となるシーズンMVPを手にした
3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志に次いで史上2人目。
 
1997年6月に「209打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立。その後の対日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、「216打席連続無三振」を記録した
最終的には185安打として、最高出塁率に関しては3年連続で途切れたが、最多安打・首位打者を4年連続とし、最多敬遠も3年連続と伸ばした
 

1998年は打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録
他、リーグ最多敬遠も4年連続となった

 

1999年シーズン開幕前の2月、星野伸之や戎信行とともに、オリックスと業務提携を結んでいたシアトル・マリナーズの春季キャンプに招待され、2週間参加した
シーズンでは開幕から調子があがらず、数年間のスランプをひきずっていたが、同年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦の第5打席で西崎幸広からセカンドゴロを放つ
後に「この打席がきっかけで、自分の打撃が開眼した」という旨を語っている通り、同打席によってスランプから脱出し、以降は復調した
4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成
7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。
 
前半戦を打率.370・19本塁打・60打点の成績で折り返すと、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った
これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場がパ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした
また、今シーズンは141安打にとどまり、最多安打に関しても5年連続で途切れた。しかし3年ぶりに最高出塁率を記録した他、首位打者に関しては6年連続とした他、引き続き5年連続最多敬遠を記録した。
 
2000年は開幕戦から4番に指名され、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持
7月には通算10度目となる月間MVPを受賞した
97試合目終了時点で打率.398を記録。102試合目終了時まで3割9分台 (.3923) を堅持するなど高打率を残していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルボールを打った際に右脇腹を痛めて途中交代。残りシーズンを棒に振った
 
10月12日、記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明
翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとして出場した
前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした
最終的に、日本プロ野球歴代2位(及びパ・リーグ記録)となるシーズン打率.387を記録。安打数こそ153安打にとどまり最多安打を逃したが、通算7度目の首位打者を獲得
6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録し、2年連続通算5度目となる最高出塁率、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した
(Wikipedia参照)

 
 
以上日本でのイチローの足跡をご紹介させてもらいました
 
大リーガーになったイチローの日本での歩みを読んでみてどう思いましたか?
確かに才能は子供のころからありましたね
それは事実です
 
それよりも自分が注目してもらいたいのは…
絶えず目先の目標を達成するために自ら絶え間ない練習をし続けてきたと言う事です
そして、目標を達成するために今自分がすることを明確にし妥協することなく毎日毎日努力をし続けてきたのです
 
だから自分が今やるべき事が誰よりも解り、信念が持てたのです
 
そして信念が持てているから、外野に惑わされることがなかったのです
 
イチローは野球の天才と言うよりも、努力を続けるの天才だと思うんです
 
その努力の結果が大リーガーイチローなのではないでしょうか?
決して目標が大リーガーイチローではなかったと思います
 
 
君達も大きな目標を持ち、その目標を達成するために今自分がするべき事を明確にし毎日毎日少しでも確実に前進していく事が大事なのです
 
是非、『努力の天才』を目指して下さい
 
そうして振り返った時…結果が付いて来るのです

 
 

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坂本 享一

某証券会社に入社した後、フリーランスを経て家庭教師・塾講師を長年行っています。この度、『勉強が解かる喜び』をモットーにした家庭教師S-PROJECTをスタートさせました。
ビリヤードが好きな陽気なおっちゃんです。

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