臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語です
紀元前6-5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来します
『史記』によると…
紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した
闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた
夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した
まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った
勾践は部下の進言に従って降伏した
勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)
その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした
ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件とした王への復帰を認めなかったために自殺した
前項に述べたとおり、「嘗胆」は「屈辱を忘れないようにする」という意味で紀元前1世紀の書物『史記』に登場し、その後もよく多くの書物で使用されたが、しばらくは「臥薪」と組み合わせた形ではなかった
「臥薪」は『晋書』『梁書』などで意味は現在のものと同じでありつつも単独で使われ、特に呉越戦争からの成語であるといった修飾文も存在しない
一方で、「臥薪抱火」(わざわざ危地に入ることのたとえ)といった意味が全く異なる別の成語として使用される例も古書(『三国志』や『梁書』)には残っている
日本での流行
中学で日清戦争⇒日清戦争への流れはもう勉強していますね(^^♪
日清戦争の講和条約の下関条約では、いったん清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、日本は清国に遼東半島を返還するようにと要求した
これを三国干渉という
この三国干渉に日本政府はしたがい、日本は清国に遼東半島を返還した」
多くの日本国民は三国干渉に反発し、国民たちの間に「臥薪嘗胆」の言葉が流行して、とくにロシアへの反発心が強まっていった
ここでなぜ『臥薪嘗胆』について書いたか…
もう皆さんお気づきですね!
高校受験に失敗した生徒は正に夫差であり勾践であって下さい
志望校に受かった生徒…
君は夫差であり勾践に追われる身なのですよ
三年とは長いようでアッという間です!